Memory

東海道を歩く

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自宅のある藤沢駅からJR東海道線で新橋へ行き銀座線で日本橋駅まで向かった。今日が復路1日目。12年前の冬、僕は当時住んでいた西宮という場所からふと思い立って東京を目指した。徒歩で。キャノン写真新世紀という写真家を目指す人へ向けたコンペで、僕は応募者の中から最終候補まで上っていった。
当時は大学を卒業したてで自分が何者か分からない時期で写真を使って作品は作り続けていたが、その作品についてしっかりと説明するという所までは至っていなかった。周りの友人や彼女には難しい顔を作り、深く思考をしているんだ、意味が深くあるからなかなか理解出来ないだろうといったように、人に攻め込まれたくないが為の防御をしていた。まさにハリボテの自分がいた。しかし作品は最終選考まで残ってしまったので、選考会でのプレゼンに向けペンを握りしめノートに「コンセプト」と書いた、「コンセプト」という文字に影を付けてみたり「コンセプト」を見る男のイラストを書いてみたり。。先が進まない。あれだけ周りにはすらすらと語っていたのに文字には出来ない。つまりまだ自分の頭の中を客観視出来ていなかったのだ。
ではどうしようか。荒木さんや、森山さんや蜷川さんや南條さんの前で何を話す?
歩こう!とこうなった。自分には歩くことしか自分の作品のことを証明する手立てがないのではないかと思ったのだ。
今も継続している作品の初期のものが賞の対象だったので、今も変わらないのだが、歩くという人間の根源的な行為を作品の中には重要な要素として締めている。
その当時の自分にはそこまで感じていたは微妙なところだが、直感的に歩くべきだと確信した。言葉の前にある感覚を信じた。
歩く中で色々な言葉や感情がドラマティックに湧いてくることを想像したが、現実はそんな予想どおりには行かなかった。約500キロの道のりを大した装備も無くお金も無く歩くわけで、正直やってもうたぁ…の連続だった。これから色々とそのエピソードを書いていこうかと思っているが、とにかく12年前のの僕は東海道を徒歩で歩いた。プレゼンは散々なものになったが、それが僕の往路。

今日が復路1日目。日本橋を出発する。
歌川広重が描いた浮世絵の東海道五十三次の現代の姿を追いながら、写真家として一歩足を踏み出した時に経験した東海道を、遡るように自分の過去と向き合う為の時間になればいいのではないかと思っている。

朝の日本橋、藤沢駅から人混みの電車で来た。藤沢までは徒歩で三日くらいかかるなぁと思いながら。バックパッカーはこの場所には異質だ。サラリーマンの群衆を普段見ることはそう多くはないが、まとまった群衆を見るとサラリーマンは黒いんだなぁとか思いながら。自分が異質な存在になればなるほど色んなものが敏感に見えてくる。少し不安なのか?いやいや希望だらけだ。

500キロの道、いい時間にしたい。

 

 

Jerusalem

エルサレム

この街を選んだのも、世界の国を訪れるなかで様々な現地の人との多くの関わりを持ちながら、その街の内部のことを経験を通して知っていくのだが、そのなかでも宗教というものなしには語れないものであった。街の成り立ちを紐解いていくと、そこには宗教というものが大きく関係をしていて、世界三大宗教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教というものの存在がいつもどこかに潜み、それが混乱の元になっていることが多いということが感覚的にわかってきた。

自分が写真を始めたきっかけに四国のお遍路という弘法大師がゆかりの霊場を順拝するための巡礼旅にでたことであるが、その当時は宗教的な意味合いを持っていたわけではなく、衝動的に歩いたのだが、後になってそこには(もちろん)仏教の精神があることを認識したほどで、自分の生やルーツにあるものとして宗教を重んじて考えるといった感覚は薄いものであった。なぜここまで宗教というものが世界を構築しているのかという問いを少しでも理解出来るかもしれないという思いで聖地と言われる場所へ訪れた。

城壁の中に厳密にはアルメニア正教を含むの4宗教がエリアを分け合い共生している。今回は2人のアシスタントを雇い街を歩いた。一人はイスラム教の方、もう一人はユダヤ教の方といったように。エリアによってそのアシスタントは入ることができないからだ。特にユダヤ教とイスラム教は同じ街に共存しながら、お互いの宗教を認め合っていないからだ。初日にアラブ系のアシスタントの女の子と待ち合わせた時、彼女からその待ち合わせの場所がわからないと電話で言ってきて本当にびっくりした。なぜ地元の人がこんなにも大通りの分かりやすい場所のことを知らないんだと。。でも後になって、生活の範囲やテリトリーが各宗教によって分かれていることを知っていくと、なるほど確かにわからないだろうなと思わされた。

メアシャリームという非常に敬虔なユダヤ人が住むエリアに入った時、そこは洋服を着ている自分が浮いてしまうほど同じ格好をした人たちしかいない場所で、通りにはユダヤ教の特徴的な黒のスーツと山高帽に長いもみあげといった服装の人たちだらけで、歩いていてもまったく違う世界にタイムスリップしてきたかのような感覚に陥る。そんな場所が他の宗教のエリアから一本道を隔てたところにあり、移動しながら突如違う世界に入り込みといったように、僕は本当に方向音痴なのだが、この街ほど方向感覚を失わされた場所は他にはなかった。何かを知ろうと思いくまなく街を歩いていても街の方からこちらを撹乱してくるかのように遠く離れてしまう。手招きし誘いながら迷宮の中に引き込んで気がつけば元の場所にもだっているようなそんな感覚であった。そういった日々が続き、非常にやきもきしていたが、市場でユダヤ教のキッパーという頭に乗せる帽子を買い、イスラム教の伝統的な帽子を買い、言葉を少し覚え服装を少し意識しながら各エリアを歩くことで徐々に人との距離を近づけ、少しづつではあるが相手がこちらを見てくれるようになった。相手というのは敬虔な人たちに限らず、街全体という意味だ。

しかし様々な方法を試しながら街の内部を見ようと試みるが、どこかどうしても馴染めないというか、掴もうとしても掴めない遠い存在としての印象が最後まで強く残った。日本人であること、自分にはどのようなルーツがあり、何に接続しているのか、彼らに示すことができないことがその街にはいれないことなのか、様々なことを思考した。しかしそれと同時に多神教、仏教にルーツのある自分だからこそ、多くのエリアを横断し、柔軟に相手の懐に入っていける特性もあるのではないかという考えも及んだ。その街の内部に入っていくという旅をする中で、自分の存在がどんどん空になっていくという感覚になることはあるが、逆に自分の存在があぶり出されるような感覚をしたのは今回が初めてでとても実りが多くあった。

迷宮の中から抜け出すには目の前の自分を知ることからはじまるのかもしれない。

TOKYO

トーキョー

大学時代にもジオラママップシリーズで、東京の作品を作り、卒業後すぐにもう一度作った。

その後2014年に更にもう一度作ることとなる。東京はいつも僕に違った印象を与える。

街が本当に魅力的だからだ。

ではその魅力とはなんなのか?

そこまで惹きつけているものは何なのか?

他の都市と比べて大きく違う点はなんなのか? 

など、多くの都市を歩きながら東京の特異性についていつも考えているが、まだ輪郭を捉えたばかりで、なかなか中心へと進むことができない。おそらくこの問いが僕の気持ちを高ぶらせるのかもしれない。

輪郭として分かっていることは、やはり東京の中心の存在だ。つまり皇居だ。天皇の住居、皇居。皇居を円状にして囲むように山手線があり、その円の真ん中に日本の象徴、かつその象徴が内包している霊的な空間があることが他の都市と違うことのひとつだ。

東京の都市が変化を続け、急激に変容しているという印象をいつも我々に与えるが、そこには、例えば川にある大きな石を想像してみるとわかるように、大きく動かない石が鎮座すればするほど、その周縁の水流が早くなるように、中心にある皇居の存在が、東京に暮らす人、いや日本人にとって皇居という”動かないもの”としてそこにあるということが、都市の速度との関係を反映しているようにみえてならない。

都市伝説として語られている、皇居を守るため、山手線が結界代わりとなっているという説はあるが、それを信じるか信じないかはどうであれ、確かに山手線と中央線の形は太極図をイメージしている。

800年前に京都から江戸へ都が移った時に陰陽を意識していたのか、少なくとも僕は地理学的な意味での、各エリアの空気、雰囲気の違いなどを、歩き、移動することで感じとれた。歩いていて好きな場所嫌いな場所がはっきり分かれる。奇妙な空気感を感じる場所を後から調べると、複雑な背景や、悍ましい事件が起こっていた事実が分かったことがあったからだ。その土地の霊的なものが、東京という都市の全てを表してるとは言わない。ただ僕は東京の撮影をしている時、兵庫県の実家から夜行バスに乗り通いながら東京を撮影していた。早朝に東京駅に着いて、毎回皇居の周りを散歩し、皇居の周縁を走るランナーがなぜこんなにも多いのか、彼らはどこから来ているのか不思議に思いながら(今でも不思議な光景にみえてしまう、それはあまり皇居の周りに人々の生活の匂いがしないから…)、皇居をスタート地点として撮影が始まっていた。その始まりの場所の、”静”という空間から、”動”という空間へとグラデーションに入っていく体験が、東京という都市の特異性を私の身体が敏感に感じとっていたのかもしれない。

2004年に制作された作品を見た多くの人から顔に見えるという感想をもらい、まったくそんなことは考えてはなかったのだが、毎回訪れるたびに東京が僕に見せてくれる顔が違うということが、もしかしたら東京というものを、有機的な人格を持った一人の人間として捉えているからなのかもしれないと気づかせてくれる。そしてその10年後に作った東京の作品にも、不思議と同じような”顔が宿る”現象が起こっている。今後の東京の姿を自分がどのように歩き見るのか、これからも継続していくことになるだろうが、東京の街に限ってはなぜか撮らされているようにも感じている、そして東京を歩いていると、東京はいつも僕に変化を求めているように思う。

トーキョウ トーキョウ トーキョウ 

頭の中で反響していて心地いい。。

New Delhi

端的にいうと、デリーでの滞在1ヶ月強で体重が9キロ減量した。

ダイエット目的ではない。おなかを下したためだ。今回のこの洗礼は度がすぎまっせ、と言いたい。しかしこの食あたりがこの街を表している。この街となかなかうまくコミュニケーションができなかった。。撮影においては出会う人出会う人に違った情報を伝えられることが多く、無駄足を運んだ影響で、炎天下の中エネルギーぎれ、生水は飲めない、熱中症、立ち止まろうものんならリキシャの僕を取り合いが始まる。そして爆弾が明日この街に投下されるから違う街に行こうという嘘っぱちにも程がある偽旅行ツアー斡旋人にはひつこく呼び止められ、こんなことが毎分続いた。カレーは最高にうまい、思い出すだけでも腹が鳴る、しかしそれを食べて宿に帰ると熱が出てくる。緑のウンチがでる。。どないなっとんねん。

このテキストを書いていると吐きそうになってくる。。それほどデリーという街を歩くということは容易なことではなかった。。 しかしぼくはそれをしにいった。なのでこれを見て旅行をやめるということはしないでほしい。多くの旅行客はもう少し選んで街を歩いている。僕がアホなだけ、この都市に殴られに行ったのだ。しかしここまでタコ殴りの目に遭うとはおもわなかった。

宿はデリーの市内から少し離れた自然のある場所だった。そこだけが唯一のオアシスで、部屋から出ることができず、くたばっている時も宿の若いスタッフ達がご飯を作ってくれたり、洗濯物を綺麗にたたんでくれ、英語でのコミュニケーションはできないまでも頑張って思いを伝えてくれたりて、本当に信用ができた。撮影は現地のロシア大使館に勤めるロシア人と、現地の敬虔なイスラム教のインド人の2人を使い分け、現地の人でも入れないような場所に交渉をしてくれたり、穴という穴を必死に押さえながら撮影をした。成田空港に着いた時に自分の首が細くなっていることに気づき、梅うどんも半分も胃に入らなかったが、しかし達成感はあった。

それはボロボロになりながらデリーという街を身体全体で体感できたという感触があったからだ。これで解放された。家に戻りフィルムを現像すると、驚くことがあった。一本のフィルムにあの宿のスタッフ3人が写っていた。しかもその全てがお互いのふざけあった顔や僕の布団で遊んだりしている写真であった。その日僕はまたお腹を下し、うなされた。。

以前のブログで書いたものが、帰国後すぐに書いたものなので臨場感があるのでそちらもそのまま掲載しておく。

インド、デリーでの撮影を終え帰国した。壮絶だったということをどう表そうか…、色々あり過ぎて、何をピックアップするべきか迷う。まずインドから日本に帰国前に見た夢をご紹介します。街中40℃近い暑さの中、体力が無い状況で追い打ちをかけられるかのように食中毒で倒れてしまい意識朦朧とした中で見た夢だ。(今でも瞼を閉じるとその光景がくっきりでてくる)割愛しながら。。。

"高校三年の生ハムが、団地裏の駐車場に高校二年の生ハムを呼び出し、ヤキをいれるという話だ。さぁいざ団地裏でいよいよ決闘するということになって、二人が殴り合うがそれがもうぐずぐずもぐずぐずで、、それもそのはず、両者の生ハム(イメージは、いわいるスーパーなどに置いてある薄切りの6枚ぐらい重なったやつが立っている感じ)に力がまったく無く、ただただずっと絡み合うといった感じ。間の細かいことはうろ覚えだがそのもっちゃりした格闘が長いこと続き、最終的に二年の生ハムが三年の生ハムの脂身の部分を全てはぎ取って勝負あり。三年の生ハムは大事な部分を取られ恥ずかしそうに泣きじゃくる。泣くことで塩分も流れ旨味が無くなっていく。勝利した二年の生ハムは脂身の部分をカラスに投げる。夕焼けが紫。"そんな夢。。

話として聞くとなんとなく面白いけど、これを夢で見るとしんどい。特に力の無い者同士の決定打のない攻撃が永遠と続くというところ。うなされるわと。。すいません今日皆さんの夢にでたら。)

あーこわっ