Jerusalem

エルサレム

この街を選んだのも、世界の国を訪れるなかで様々な現地の人との多くの関わりを持ちながら、その街の内部のことを経験を通して知っていくのだが、そのなかでも宗教というものなしには語れないものであった。街の成り立ちを紐解いていくと、そこには宗教というものが大きく関係をしていて、世界三大宗教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教というものの存在がいつもどこかに潜み、それが混乱の元になっていることが多いということが感覚的にわかってきた。

自分が写真を始めたきっかけに四国のお遍路という弘法大師がゆかりの霊場を順拝するための巡礼旅にでたことであるが、その当時は宗教的な意味合いを持っていたわけではなく、衝動的に歩いたのだが、後になってそこには(もちろん)仏教の精神があることを認識したほどで、自分の生やルーツにあるものとして宗教を重んじて考えるといった感覚は薄いものであった。なぜここまで宗教というものが世界を構築しているのかという問いを少しでも理解出来るかもしれないという思いで聖地と言われる場所へ訪れた。

城壁の中に厳密にはアルメニア正教を含むの4宗教がエリアを分け合い共生している。今回は2人のアシスタントを雇い街を歩いた。一人はイスラム教の方、もう一人はユダヤ教の方といったように。エリアによってそのアシスタントは入ることができないからだ。特にユダヤ教とイスラム教は同じ街に共存しながら、お互いの宗教を認め合っていないからだ。初日にアラブ系のアシスタントの女の子と待ち合わせた時、彼女からその待ち合わせの場所がわからないと電話で言ってきて本当にびっくりした。なぜ地元の人がこんなにも大通りの分かりやすい場所のことを知らないんだと。。でも後になって、生活の範囲やテリトリーが各宗教によって分かれていることを知っていくと、なるほど確かにわからないだろうなと思わされた。

メアシャリームという非常に敬虔なユダヤ人が住むエリアに入った時、そこは洋服を着ている自分が浮いてしまうほど同じ格好をした人たちしかいない場所で、通りにはユダヤ教の特徴的な黒のスーツと山高帽に長いもみあげといった服装の人たちだらけで、歩いていてもまったく違う世界にタイムスリップしてきたかのような感覚に陥る。そんな場所が他の宗教のエリアから一本道を隔てたところにあり、移動しながら突如違う世界に入り込みといったように、僕は本当に方向音痴なのだが、この街ほど方向感覚を失わされた場所は他にはなかった。何かを知ろうと思いくまなく街を歩いていても街の方からこちらを撹乱してくるかのように遠く離れてしまう。手招きし誘いながら迷宮の中に引き込んで気がつけば元の場所にもだっているようなそんな感覚であった。そういった日々が続き、非常にやきもきしていたが、市場でユダヤ教のキッパーという頭に乗せる帽子を買い、イスラム教の伝統的な帽子を買い、言葉を少し覚え服装を少し意識しながら各エリアを歩くことで徐々に人との距離を近づけ、少しづつではあるが相手がこちらを見てくれるようになった。相手というのは敬虔な人たちに限らず、街全体という意味だ。

しかし様々な方法を試しながら街の内部を見ようと試みるが、どこかどうしても馴染めないというか、掴もうとしても掴めない遠い存在としての印象が最後まで強く残った。日本人であること、自分にはどのようなルーツがあり、何に接続しているのか、彼らに示すことができないことがその街にはいれないことなのか、様々なことを思考した。しかしそれと同時に多神教、仏教にルーツのある自分だからこそ、多くのエリアを横断し、柔軟に相手の懐に入っていける特性もあるのではないかという考えも及んだ。その街の内部に入っていくという旅をする中で、自分の存在がどんどん空になっていくという感覚になることはあるが、逆に自分の存在があぶり出されるような感覚をしたのは今回が初めてでとても実りが多くあった。

迷宮の中から抜け出すには目の前の自分を知ることからはじまるのかもしれない。