Memory

San Francisco

サンフランシスコに来る前はノースカロライナのチャペルヒルという小さな町の外れの辺り一面森という場所に1ヶ月ほど滞在していた。Cassie Haus(http://cassilhaus.com)というアーティストインレジデンスに招聘され、森の中という素晴らしい環境で生活しながら、創作する場を与えてもらった。そこでのなんともオーガニックな生活から移動してきた場所は、同じアメリカでも全く違う環境の場所であった。

そこから大都市への移動は僕の中で気持ちを切り替えるのに少々時間が必要だった。それはチャペルヒルと、サンフランシスコという街のコントラストが強かったからだ。ひとつひとつ上げていくとキリがないが、まず最初のインパクトはなんといってもBay to Breakerというマラソン大会だ。それもいわゆる普通のマラソン大会ではなく、参加者が思い思いのコスチュームを纏い走るというもので、仮装マラソンという名前の方が適しているだろう。どう考えても走って完走しようという思いのない人たちが参加していて、走るというか歩く、いや這いずり回るとった人もいた。それは全てお酒やマリファナのせいかな、、。

どの都市を訪れても毎回何かしらの洗礼を受けるが、サンフランシスコに限っては最初の印象から最後まで、こんなにも裸を見た、いや見させられた街はそうそうなかった。僕の滞在している時期に特別集中していたのかどうなのかわからないが、Pride Paradeやsilent Discoといったクレイジーなイベントをたくさんみた。どれも僕にとって刺激的で、宿から出る時には心のスウィッチをパチンとつけて出るということをいつも忘れずいた。そうしないと巨大な怪物に一気に飲みこまれるという感覚になるからだ、、。

一度はサンフランシスコに訪れたことのある人はその街のシンボリックなものを頭に思い浮かべることができると思うが、それは本当に本当に坂が多いということだ、、。坂が多い街は他にもあったが、ここまで僕の撮影にとってサディスティックな街はなかった。展望できる小高い山から眺めると、街の凹凸がよくわかるが、それはいびつに突出した足踏み健康器のようだった。そこを歩くこと、そしてその坂をどのように撮影するかこというとは、いつも考えていた。それに山や海からの撮影も積極的にし、サイクリングをすることで街の大きさや、坂の傾斜、各エリアの特徴の違いを肌で感じた。

その街をどのように体感できるかということを大切に旅をしているが、毎日その体感を続ければ続けるほど、この街の、この街ができる前の姿がゆっくりと目の前に現れてきたし、ノースカロライナ滞在時の圧倒された自然環境からこの街に来て、アメリカの本来持っている広大で豊かな土地が放つ自然の歴史というものをここにきて身体的に感じることができたことは大きな発見でもあった。

今サンフランシスコは建設ラッシュだ。多くのビルが建ちストリートに光が入りにくくなっているのだと嘆いている地元の人もいた。。この街はこれからどう変化していくのか、真っ裸で歩くことを好む人たちを思い返し、彼ら(主にナチュラリスト)の主張はもしかしたら、この街の急激な都市化に対する反抗なのでは?なんて想像するのである。

Havana

ハバナ、ここは僕にとって特別な場所だ。それまでずっと中米、南米には興味があり、その理由は、若き日のチェゲバラの南米旅行記を綴った書籍”モーターサイクルダイアリーズ”のような、中米から南米までの旅をした親友にいつもその旅のことを熱弁されていたことや、昔母親に買ってもらって読んだ写真家の南米についてのエッセー本など、全く日本にはないものが溢れる魅惑の土地という印象もあり、それにキューバに関しては、アメリカとの国交正常化が行われるという歴史的なタイミングということもあり、迷わずキューバ行きを決断をしたのだ。

便利で住みよい国NIPPONに住む我々からすれば、キューバを体感することについて最初は面食らってしまう人は多いのではないだろうか。それほど多くのギャップがあるということだ。例えば、水を買い忘れたら困ってしまうほど、近くに売っていないだとか、基本的にインターネットが特定の場所でしか使えないだとか、クレジットカードが使えるところはほぼないだとか、よく停電にもなるだとか、その他にも細かな不便と思うことは山のようにある。それはこの国の革命家たちの共産思想のもと選択されてきた決断によって成り立った結果であり、だからこそこの国には強み弱み両方とも持っているのだと思う。

多くのものはこの街にはない、そして不便だ。しかし我々が当たり前のようになってしまっている生活習慣や金銭感覚、時間感覚、そういった知らず知らずに染み付いてしまった日常の意識に対し、本当の豊かさとはもしかしたらこうなんじゃないかと、ハッと立ち止まらせてくれるようなことをこの街は提示してくれたように感じる。

1日の始まりは、借りていたアパートの目の前の大量の鶏が鳴くこと、その大きな鳴き声が僕の目を覚まさせ、部屋に向かって叫ぶアシスタントの声が撮影スタートの合図。 灼熱の中街を歩き回り、キューバは二重通貨という制度があるが(ツーリストが使えるお金と地元民が使うお金が分かれている)、キューバ人民ペソでしか使えない、100円くらいのプレートを食べる。だいたいがバナナをスライスしたフライと生のアボガドとライスと鳥か豚の煮込みかステーキ(これは本当にうまい)を食べ、だいたい17時ぐらいに撮影を終え、乗り合いタクシーを使って宿の近くに降り、露店の酒屋でキンキンに冷えたCRYSTALというビールを買い、アパートに帰るまでの間、必ず同じ場所、同じ時間座っているおじさんにオラッと挨拶をし、家の前で戯れているおじさんおばさんに、チーカチーカ(女性の意味ではあるが、とくにこの言葉をツーリストに言う場合は売春のこと)と誘ってくるのをあしらいながら帰宅し、パスタかスープなどを作って、冷凍庫の中に入っているキューバラムをトゥコーラという本家コカコーラのバッタモンで割って、22時頃には周りの静けさとともに眠りにつく、もしくはマレコン通りまで歩き、海沿いの防波堤に座り、海を眺めミュージシャンが奏でるサルサと、パックに入っているラムをチューチュー吸い、売る気のないハマキ売りからぼったくられながら買ったハマキを吸うということ。大体の日常がこのような1日だった。

その生活が新鮮だった。 僕は街を歩く時は路地を歩くのが好きなのだが、キューバほど道や路地に人が溢れていたことはなかったし、誰がどこの家の子であるとか、ここからここまでがうちの敷地だというような隔ては感じられず、ストリート自体が皆の家で、皆で共有していた。家の中での娯楽がそこまで多くないということもあるだろうが、ベランダや家の前の石段には必ず誰かが座っていて、通る人をじーっと見つめていて最初は少し怖さもあったが、それも徐々に薄れ、むしろ逆に守られているような気にさえなるほどであった。

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日本にいたら1日誰かと話さずに楽しく過ごす方法はいくらでもある。動かなくても世界と繋がれて、食品、生活用品や娯楽に至る様々なものが簡単に手に入る。むしろいかに他者とかかわらずにハッピーに生きれるかといったアイテムやコンテンツが多く、バーチャルなものに価値が生まれたことで、生身の人間同士のコミュニケーションから離れていくという現象が起こっているからだろう。

ここキューバでは人と直に繋がらずに1日を過ごすのは逆に難しいのではないかと感じるほど、人を強く感じた。撮影に関しては最初、軍事施設はぜったい撮影できないとか大きなカメラでスナップを撮るのは難しいんじゃないかと言われていたが、それも全く問題はなかったし、むしろ好意的だった。                                多くのものはなく不便で、人々はそんなに裕福ではないが、多くのものがあるという不便さもあるんだということをこの街から教わったし、豊かさの形を改めて考えさせられた。 

今回の旅の中ではインターネット世代の若者達はやはり多くの情報が入ってくるせいか、どんどん変わっていくことに対し野心的だった。ブエナビスタソシアルクラブなどは観光客向けの古いものとなり、レゲトンやヒップホップ(トラップ系などすら)といった外から入ってくる音楽も多く聞こえてきた。この世代が次に繋げていく。都市が変わっていくことには素晴らしいことだと思うが、資本主義社会にいる立場からすると、これから少しづつアメリカがキューバという場所に色々なものを発展させていったその先にあるものは、どうしてもいい未来を想像できないと思ってしまうのは、現地の人たちからは勝手な意見ととられてしまうだろうか。。この街を訪れた時から、10〜15年後のハバナにもう一度訪れたいと思っている。その時のキューバの姿が、世界の未来を表しているんじゃないかと妄想する

Johannesburg

今すぐにでも行きたい街はどこかと聞かれると、一番最初に頭に出てくるのはヨハネスブルグであろう。

確か着いて5日目に強盗にあった。ヨハネスブルグの一番の中心のMerble Towersという人通りの多いオフィスビルの前で白昼堂々にだ。僕は今だに後ろから走ってくる人が怖い、それが子供だとしても。。トラウマというやつだ。事件に遭った時、僕は赤いパンツを履いていた。彼ら7人〜8人は僕の鞄の中のカメラや携帯など全てを奪っていき、それでは満足せず、履いていたジーパンまでも奪おうとした。途中まで脱がされたところで僕は冷静に、この後赤いパンツで街を歩くのは恥ずかしいと思い、抵抗しなんとか死守した。恐いという感情ももちろんあったが、それよりもヨハネスブルグにきたんだなぁと、じめっと出た汗とともに感じた。その後もずっと自分はイージーターゲットなんだという意識を持ち、一人で歩く時は20歩歩くと後ろを振り返るというようにしていたがその後は大きなトラブルには遭わなかった。

そしてなぜ僕はこのような目にあうのか、その背景には何があるのか、この街の洗礼はなかなか厳しいものではあったが、それをきっかけに多くのことを学んだ。街が大きく変化した背景には、アパルトヘイトによって混乱し秩序を失ってしまった都市があり、ヨーロッパから渡ってきた白人達がアパルトヘイト解放後に都市から郊外へ移り、その影響により中心地が空洞化し野心的な国外のアフリカ人達が増え犯罪が生まれ、そこから多くの負が連鎖し、様々な腐敗が生まれた。 

ここまで読んでなぜ行きたい街なんだと思うかもしれないが、なんとも言葉にできない感情でがこみあげてくるのは紛れもない事実だ。高校生の時にhipHopやレゲェやパンクといったレベルミュージックにショックを受け、その時に知った奴隷制度というもの。旅を続ける中で、日本人であることがマイノリティと感じることが多くあるが、僕は日本人がどういう種族でどこからきたのかということに興味が湧いてきた背景には、専門的にまではいかないが、思春期に黒い肌の人のことを意識することが多くなり、音楽や映画に関わらず歴史、宗教に至るまでを注視し、なぜ人種によって隔たりがありなぜ世界は平等にいかないのかということを考えてきたことがきっかけとしてあるように感じる。そのような意味では複雑な背景の中、成長し新たな文化を作り出そうとしている凄まじいエネルギーを持つヨハネスブルグという都市の今を、今回はいつものように歩きながらではなく、自転車に乗りながら、街をくまなく移動し体感できたと思っている。

そのエネルギーを象徴しているものはやはり音楽に証明される。ハウスミュージックだ。なぜここまで街中のいたるところでハウスミュージックが流れているのか、お年寄りから子供までハウスがかかると軽快なステップで踊りだす。僕はそれを最初不思議な光景に映った。日本で考えると、街中に演歌がかかると老若男女一緒に歌い踊るということはまずないし、だいたいは世代によって趣向が違うものだ。しかしここでは爆発的にハウスミュージックが人気だ。現地の人に聞くと、アパルトヘイトという制度の最中、人権を持たされない多く人々には音楽を聴くことが許されておらず、しかしその制度が1994年にマンデラの大統領誕生と共に廃止され、当時ヨーロッパなどから音楽文化を持ってきた人たちがラジオでハウスミュージックを流し、その4つ打ちのビートの高揚感を感じるテンポと心臓の鼓動のような胸への響きが、長らく鬱憤の溜まりに溜まっていた黒人の人々の心をロックし、ハウスミュージックという聞いたことのない新しい音楽と、解放されたという喜びの気持ちが完全に一致し、そこから一気に大爆発したということだそうだ。

電子音楽を取り入れつつ、アフリカの伝統的な民族音楽がエッセンスされた心地よいサウンドは素晴らしい。彼らの音の取り方も同じ人間かと疑いたくなるほど素晴らしい、生まれた時からダンサーのライセンスは持っているんじゃないかといつも思うそしてヨハネスブルグでは、ハウスミュージックに限らず多くのミュージシャンの歌を聴いた。今まで生きてきて音楽で涙が溢れてくるという経験は多くはなかったが、そこでは何度泣いたかというぐらい泣きじゃくった。それは勝手な個人的な思いを投下しているだけなのかもしれないが、彼らと音楽で繋がっていると不思議とずっと大きなものに包み込まれているような安心感があり、それが心地よく、僕はよく音楽を聴きにクラブや野外フェスなどに行った。。SOWETOという郊外のタウンシップ(アパルトヘイト時代隔離された場所の呼び名)やアシスタントの故郷であるオレンジファームという日本人を見たこともないような村にもなんども足を運び、珍しがられながらも地元の人たちと触れ合った経験は忘れられないものとなった。この文章を書いている僕のアトリエにはヨハネスブルグから来た友達がいるが、彼はハウスミュージックが流れると故郷を思い出すかのように軽快に踊りだす。